ニベアの匂いがする方に

ストーリー
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バイト先の休憩室。

どこからか嗅ぎ覚えのある匂いが漂ってきた。視線を揺らすと、君が小さなバッグを膝の上に置いたまま手になにか持っていた。

ごめん、匂った?

君は手をこすり合わせながら言う。

ううん。

ぼくは慌てて首を振る。

良かった。この匂い、苦手だっていう人けっこう多いから。

君は手に持っていたニベアをぼくに向けた。

俺は好きだよ、その匂い。

本当?私も好きなの、ニベアの匂い。

父も母も働いていて、ニベアとは何の関係もない仕事だったけれど、家にはいつもニベアの匂いがあった。

乾燥肌のぼくは、小さいころからニベアを使っていた。父も母も使っていたニベアはいつも家にあり、「これ使いなさい」と手渡されていた。

ひとりのときでも、そうじゃないときも。

冬も夏も秋も冬も。

ランドセルの中にもトートバッグの中にもボディバッグの中にも。

ニベアの匂いはいつだってぼくのそばにあった。

何度も出会ったことがある。

ニベアの匂いが苦手、という声と。

いつからか、その声を気にするようになっていた。誰かがいる前でニベアを出すことはなくなったし、こっそりちょっと塗ったあとは無駄に手を振った。

きっとその声の中に、そのころ好きだったあの人の声も入っていたから。

高校卒業と共に、ぼくは家を出た。

ひとり暮らしをはじめて約2年が経った。

片手ほどしか家には帰らず、毎日のようにしていた近況報告もなくなった。

それでもたまに、家から荷物が届く。食料品や生活雑貨がパンパンに詰められた段ボールが。

「辛い」とか「寂しい」とか「苦しい」とか、父にも母にも一度も伝えたことはない。

でもそんなときに限って、家から段ボールが届いた。パンパンの段ボールの中には必ず、ニベアも入っていた。

切なくて嬉しくて情けなくて、ぼくは段ボールを開ける。パンパンの段ボールの中身を漁るように一つひとつ確認しながら。

そのたび、食料品や生活雑貨はすべて使い切った。それでも必ず入っていた1缶のニベアは開けることなく、本棚の上に積み重ねていった。

家にずっとあったニベアの匂い。

この狭い部屋にもそれがあったのなら、何のためにひとり暮らしをはじめたのか。それがわからなくなってしまいそうだったから。

メールで一言お礼を伝える。

「からだに気をつけて」。

向こうの返信はいつだってそれだけだった。

懐かしいな。

ぼくはそう言いながら、バイト先の休憩室で家を思い出した。

そう?私は小さいころから今までずっと使ってるよ。

君は両手で鼻を覆うようにかざし、ニベアの匂いを嗅いで笑った。

漂ってくるニベアの匂いは、今もあの頃も何も変わっていない。

今僕は違うクリームを使っている。なんだかおしゃれな甘い匂いのするクリーム。ニベアよりもいくらか高いクリーム。しっとりサラサラのクリーム。

ニベアは本棚の上に積み重ねられたまま。

ちょっと匂ってみる?

君はぼくの方へと手を差し出す。

えっ?

好きなんでしょ?ニベアの匂い。なんだか嬉しいの。この匂いが好きっていう人がいることが。

君は椅子から立ち上がり、ぼくの方へ近づいてくる。

いい匂い。

ぼくは差し出された君の手をゆっくり嗅ぐ。音をたてないよう、鼻でゆっくり息を吸いながら。

だよね!良かった、分かり合える人がいて。

君はどこまでも笑顔だ。

ちょっともらっていい?

ぼくの手はからっからに乾燥している。

いいよ。

君は嫌な顔も素振りも見せることなく、小さなバッグからニベアを取り出した。

ありがとう。

ぼくは少しだけニベアを手にとり、両手になじませる。

いい匂い。

両手にしっかり塗ったあと手を2回グーパーさせて、ぼくは匂いを嗅ぐ。

だよね。

君も両手を鼻に近づける。

休憩室にニベアの匂いが広がった。どこかみたいに、漂っている。

家を出て、ひとり暮らしをはじめて、バイトする。たったそれだけのことなのに、ニベアの匂いから離れることで、ひとりで生きているのだと実感できる。

ニベアの匂いよりも甘っちょろいそんな思考に改めて気がつくと、なんだかとても恥ずかしくなった。

バイトが終わって家に帰ったら、積み上げられたニベアを崩そう。一つひとつ、使い切るのに時間はかかるけれど、崩そう。

あっ、もう休憩時間終わりだ。行こっ!

君は立ち上がり、ぼくを見る。

よしっ、頑張ろう!

ぼくは声を張る。

どうしたの?

君は笑っていない。

別に。さあ、行こう。

明日から、いや、きっと今からぼくは君のことを意識するだろう。

ニベアの匂いがする君を。

休憩室を出る前、君にバレないようにもう一度両手を鼻に近づけた。

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